甲州水晶貴石細工
今から約1000年前、御岳仙峡の奥地 金峰山で水晶の原石が発見さ
れたことが、甲府での水晶細工の起源です。
江戸時代の天保年間、京都より玉造りの職人を迎え鉄板の上に金剛砂を
まいて水晶を磨く方法を考案したのが水晶細工の始まりでした。安政年
間1850年ごろには、水晶やヒスイを使った数珠や帯止め根付などの
注文があり、産地として確立していたことは、土屋家(現土屋華章製作
所)の記録として残っています。
大正初期には、南米やアフリカ諸国から水晶やメノウ、虎目石などが輸
入され、設備の電化などもあってより精密で高度な技術が確立され、美
術品や装身具を生産するようになったそうです。
作られた作品は、第一回パリ万博にも出展され水晶彫刻研磨の技術は、
世界の目に触れることとなり大好評を得ることとなりました。
戦後は、輸出が急増し製品の80%は、海外向けでしたが、昭和50年
代のドルショックを境に高度な技術を駆使した国内向けの美術品を生産
し工芸品から芸術品へとその質を高めているそうです。
ちなみに私は、水晶のはんこを持っています。
甲州印伝
甲州印伝は、鹿革に漆で模様をつけたものが特徴で、この革を使って様
々な製品を作っています。日本の革工芸の歴史をたどると奈良時代にさ
かのぼります。革を染める、模様を描くなどいろいろな技法が考案され
、また外国より伝搬されてきました。
甲州印伝の特徴の一つである鹿革は、体になじみ強度を備えていること
から武具にも盛んに使われており、戦国時代には、ふすべや更紗技法を
用いた鎧や兜が武将たちの勇士を飾っていました。
印伝の由来は、寛永年間(1624~1643年)に来航した外国人に
より印度(インド)飾革が幕府に献上された際に名付けられたと伝えら
れています。
そのきれいな色に刺激されて 後に国産化されたものを印伝と呼ぶよう
になったそうです。貞享二(1685)年刊の京都の地誌である「京羽二重
」や十返舎一九「東海道中膝栗毛」(1802年)の中に「印伝」の記
述があることから、江戸時代には、各地で製造されたものと思われます
が、現在製法が伝わっているのは、甲州印伝のみです。
大石紬
河口湖にまだ人口放水路がなかった時代、豪雨のたびに湖岸の耕作地
は、たちまち冠水した。
大石地区の人々は、増水害を避け御坂山麓の山裾に耕地を求めて焼畑
農業を行い生計を立てていた。山畑に桑を植え養蚕が始まり養蚕が農
業収入の主力となり、山畑の大半は、桑畑になりました。
そして春蚕、夏蚕、秋蚕と年3回の養蚕で繭を売り、その屑繭および
玉繭などの副産糸から座繰り手引きとして紬を織り大石紬は生まれた
そうです。
江戸時代の末には、租税としても現物で物納された。紬の全盛期の明治
末から昭和初期にかけて250戸余りの農家により紬が織られ年間34
00反余りが生産されていた。この紬は、伝統的手法により経糸を本繭
(一匹の蚕が作った正常の繭)から経糸を玉繭(2匹の蚕が作った変形
した繭)からすべて座繰り手引きしたものを一反または一疋に機織した
もので特徴は、丈夫で軽く柔らかくそして絹特有のすべりの良さとなり
丈夫で絹織物と紬織物の両面を併せ持つ 他の紬織りと異なった風合い
を持っているそうです。
甲州親子だるま
甲州だるまの歴史は、400年前、甲府市上一条町に住んでいた武井八
衛門が武田信玄の顔を模して作り始めたと伝えられています。その後(
1735年ごろ)五代目八衛が現在の親子だるまを考案したそうです。
一般のだるまとの相違点は、
①白いだるまであること
②だるまの腹に子だるまがあること
③親の目は神棚に上げたとき拝む人の目とだるまの目が合うようにでき
ています。
このだるまは、全国でも珍しい子供に関係した 親が子供を思う心が、
込められています。
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