岐阜県の伝統工芸品

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美濃焼

美濃焼とは、他の焼き物産地である九谷、京焼、有田焼、信楽、備前な

どと多少異なり一つの焼き物のスタイルを持っていません。

美濃で焼かれた器というのがわかりやすい表現だと思います。

代表的な 織部焼、志野焼をはじめ、土物だけでなく磁器の産地でもあ

り、焼物の国内シェアは50%以上を占めます。

美濃焼のふる里は広く、岐阜県南部の東濃地方と愛知県境。

主に瀬戸と隣接する土岐市、多治見市辺りです。

「美濃焼」とは、明治以降に使われ始めた言葉です。

そして安土桃山時代に武将の茶の湯の文化と共に、茶人の好みを反映

した芸術性の高い茶陶、しっとりとした器肌の黄瀬戸、斬新な意匠の

織部、白い釉薬の志野、漆黒の瀬戸黒茶碗などが生み出されました。

これが桃山陶です。

昭和になり桃山陶を再現した陶芸家(荒川豊作、北大路魯山人など)

により美濃焼は、注目を集め 現在でも多くの窯元、作家、量産工場

で幅広い器作りの人たちが活動しています。

1978年(昭和53年)に経済産業省で伝統工芸品に認定されてい

ます。

 

飛騨春慶

 

飛騨春慶とは、岐阜県高山市、飛騨市で製造される春慶塗の漆器のこ

とで 1975年経済産業省の伝統的工芸品に指定されています。

飛騨春慶塗りは、江戸時代初期 慶長年間(1596~1615年)

高山城主 金森可重の時代に大工の棟梁だった高橋喜左衛門が、ある

日打ち割ったサワラの割れ目の美しさに心打たれ、それでお盆を作り

可重の子 重近に献上しました。それを御用塗師の成田三右衛門が、

苦心の末木地の自然美を生かして 透漆で塗り上げたところ、この漆

の色が、陶工加藤四郎左衛門景正の名陶「飛春慶」の茶壷の黄釉に似

ていたことから、城主可重が「春慶」と命名したのが始まりと伝えら

れています。

江戸時代中期に、飛騨が天領になると 歴代郡代が地場産業として発

展に力を入れ  幕末には問屋も出現し、明治大正となるころには、

春慶塗も大衆、庶民化していきました。明治には、問屋が中心になり

振興に努めセントルイスの万国博覧会で銀賞を受けるなどで知名度を

高めました。

 

一位一刀彫

一位一刀彫の由来は、一位の語源は、その昔、天皇即位の折に飛騨水

無神社からイチイの木でつくられた笏(しゃく)を献上したところ他

の材で作られたものより美しく質が高かったので「正一位」という最

高の位が与えられたからと伝えられています。

17世紀に、江戸で活躍した高山出身の根付彫刻師、松田亮朝に師事

した松田亮長が、イチイの材を用いてノミだけで彫り上げる刀法で彩

色のない刃跡を鋭く残す 彫り物を編み出したことに始まりました。

一位一刀彫の作品には、代表的なものに高砂人形、仏像、ふくろうの

置物、頭にさすかんざしなどがあります。

しかし近年材料として手に入るイチイの量が極端に減り、後継者不足

などから伝統継承の危機に拍車をかけています。

 

美濃和紙

和紙と言うのは主に楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、がんぴという

木の皮の繊維を材料にして作る紙のことです。

約1300年前の美濃の国では、すでに紙が作られていて、それらは

「美濃紙」と呼ばれていたそうです。

美濃の国では、紙の原料となる楮の質がとても良くたくさん採れたそ

うです。美濃紙は、他の紙に比べてみた目が美しく丈夫で日本だけで

なく、中国にもその素晴らしさが伝わって行きました。

一番盛んに紙が作られていた頃は、美濃市周辺の村々でも5000戸

の紙すきの家がありましたが現在では30戸弱が残っているだけだそ

うです。

どうしてこんなに減ってしまったのかというと生活様式の変化が原因

とされています。

最近になっては和紙の丈夫さ・美しさから日本だけでなく外国の人々

からも見直されるようになりました。

最近では和紙を使って色んなコラボしたランプなども出ています。

もっともっと和紙の良さをたくさんの人々に知ってもらいたいと思い

ました。

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