伊賀組ひも
組紐技術は、奈良時代、仏教伝来と共に中国から伝えられたとされ、
伊賀地方で組紐が製造されるようになったのは江戸時代からだと言わ
れていますが、組み方の名称に高麗組というものがあることから伊賀
組紐が、高麗国があった時代から存在していたという説もあります。
組紐はもともと刀や鎧などの武具や仏具に使用されていたそうです。
武家政権の最盛期には良かったのですが、武家政権の崩壊とともに組
紐の需要は、減っていきました。
そんな中、廣澤徳三郎という人物が、江戸組紐の技術を習得し持ち帰
ったそうです。
伊賀組紐は帯締めや羽織紐などに使用されるようになりました。
伊賀組紐の特徴は美しい絹糸の組み方です。
緻密に組まれた絹糸はまばやく輝き、様々な形は、それぞれ全く異な
った印象を与えます。伊賀組紐の帯締めの種類は約35種類に及び組
み方によって印象が大きく異なるそうです。
組み方の名称に高麗組というものがあることから伊賀組紐が、高麗国
が、あった時代から存在していたという説もあります。
昭和51年には、伝統工芸品に指定されています。
現在は、男性用小物として ネクタイ、ループタイ 女性用には、髪
飾り、人形、アクセサリー、根付、キーホルダー、ストラップ、袋物
などがあります。
四日市萬古焼
萬古焼とは、陶磁器・焼き物の一つで、葉長石(ペタライト)を使用
して耐熱性に優れた特徴を持つ。陶器と磁器の間の性質を持つ半磁器
に分類される。その耐熱性の特徴を活かした急須や土鍋が有名で、土
鍋の国内シェアは、7・8割を占めています。
萬古焼の歴史は、室町時代に 楽市楽座の自由商業都市として有名な
回船問屋沼波家は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊
勢天目を扱っていたのですが、江戸時代に作り始めたのが萬古焼だっ
たのです。
屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易」の名は、いつの世ま
でも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は、今も受けつがれ
ている。
沼波家の跡取りとして享保1718年に生まれた五左衛門弄山(ろう
ざん)は幼い頃から茶道に精進した茶人で、その趣味が高じて萬古焼
を開窯した。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山に多くを学んだ
内外の茶碗の写し物をはじめ、綺麗な色絵を主体として優美が作品を
産み出しました。それを古萬古と呼びます。
明治時代には、山中忠左衛門らによって洋皿、コーヒーカップ等の洋
食器の研究、地域住民への製作指導、海外輸出も行なわれるようにな
りました。
三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年
)伝統工芸品に指定されている。
2016年開催された先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)では、萬
古焼の盃が乾杯の際に使用された。
鈴鹿墨
平安時代の初期に鈴鹿の山の松を使い製墨が行なわれたのが始まりと
されています。鈴鹿は、製墨に必要な気候風土に恵まれ、紀州藩の保
護の下 需要の増加とともに大きく発展しました。
墨の発色が良く、上品な深みがあり、基線とにじみが見事に調和する
と書道愛好家に幅広く使用されております。
また鈴鹿墨を染料として使うこともされています。
伊勢型紙
起源は平安初期に遡るといわれ、その精巧で緻密な技術は、江戸時代
に紀州藩の庇護を受けて飛躍的に広まった。伊勢型紙は、着物の柄や
紋様の染色に用いる型紙で、和紙を柿渋によって貼り合わせ、彫刻刀
で細かい紋様を切り抜いたもの。1980年(昭和55年)国の伝統
工芸用具に指定されている。
那智黒石
那智黒石は、三重県熊野市で産出される粘板岩の一種。
江戸時代には、七里御浜で採取された那智黒石が庭園用の玉石として
用いられており、那智黒石という呼称の発出は、天保10年に完成し
た紀州続風土記とされている。
碁石の黒石、硯、床置石、装飾品、那智黒成型品などに加工される。
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