高岡銅器
高岡銅器は、慶長16年(1611年)加賀二代目藩主前田利長が高
岡城下に七人の鋳物師を呼び寄せ、特権を与え住まわせたのが初め
です。
当初、生活必需品を鉄で作っていましたが、その後、銅・亜鉛・鉛・錫
の合金である唐物鋳物と言われる鋳物に彫金をほどこす花器、仏具など
を作り出すことになり発達した。
さらに銅器による梵鐘や灯篭、装身具などが作られるようになり、一大
鋳物産地が形成されました。
鋳物の製造工程は分業化されており、現在、人間国宝や現代の名工を
輩出し多くの工芸師と共に大仏やブロンズ像などの大型なものからネ
ームプレート、置物、風鈴、香炉、ろうそく立て、アクセサリー小物に
いたるまで様々な製品が作られています。
1975年(昭和50年)国の伝統工芸品に指定されました。
明治時代には、万国博覧会に出品し、精巧な文様や流麗な形が高い評
価を受け輸出品としても確固たる地位を築きました。
近年 全国自治体や商店街で注目されている「ゲゲゲの鬼太郎」「サ
ザエさん」「ドラエモン」など、人気アニメキャラクターの銅像も手が
けています。
最近、優れた金属加工の技術から錫でできた曲がるお皿が人気です。
金属なのに軽い力で簡単に曲がる不思議な食器です。
井波彫刻
井波は、富山県南西部、民家が点在する「散居村」の景色が広がる砺
波平野の南端に位置し、14世紀末に建立された井波別院瑞泉寺の門
前町として栄えてきました。井波彫刻は、18世紀中ごろ、瑞泉寺の
本堂が消失し、再建の折りに京都本願寺から派遣された御用彫刻師・
前川三四郎に井波の大工が彫刻の技術を教わった事が始まりとされて
います。
江戸時代末期ごろまで主に神社仏閣彫刻を初め、天神像や獅子頭の
置物、豪華な欄間で知られにその技法を競っていました。
現在豪華な社寺彫刻で培った丸彫りや透かし深彫りの技を活かして、
民家の欄間や置物など室内彫刻へと移り変わっています。
近年は看板や額など製品の幅が広がり、美術の公募展に出品する人も
。
現在、120軒の工房で約200人の彫刻師が活躍している。
高岡漆器
江戸時代初期、二代加賀藩主・前田利長が高岡城を築いて城下町が
形成され、町の一つとして家具類を作る指物屋町ができ、武具や箪笥
・日用雑貨を作らせ家具に漆を塗るようになったのが高岡漆器の始まり
です。
その後、赤物と呼ばれる漆器、江戸時代中期には中国から漆を塗り重
ねて彫刻を施す技法が伝えられ、色漆を使って立体感を出す彩蒔絵・
木彫・堆朱・堆黒など漆塗りの技術が生み出され、江戸時代後期には
、木彫彩漆に優れた名工が現れた。常に時代に合うものを感じ取り、
室内を優美に彩る漆器を製作してきた高岡漆器は、今も受け継いだ技
をもとに、暮らしになじむものづくりを行っています。
庄川挽物木地
庄川町の貯木場は、飛騨地方や五箇山の木材を庄川の流れを利用し
た加賀藩の用材調達のための一大集散地であった。
慶応2年(1866年)庄川町に越後屋清次郎が移住し、ろくろ挽物の
木地屋を営んだのが庄川挽物木地の始まりと伝えられています。
横挽による美しい杢目が特徴で、トチやケヤキなどの国産材を使用し
た椀や盆、皿などの丸物木地製品の生産や、全国の漆器産地に供給
する下地の製造を行なっています。
越中和紙
越中和紙は、八尾、五箇山、蛭谷の産地からなります。
昭和59年に国の伝統的工芸品の指定を受けるため、三つの産地を総
称して「越中和紙」と命名されました。
奈良時代の書物に、紙の産地として「越中」が記されており、平安時
代には納税品として紙を収めた記録があります。
その頃から徐々に障子紙、半紙、提灯紙、傘紙、富山の売薬の包み紙
などの身近なものを中心に生活の中に紙が取り入れられました。楮(
こうぞ)などの自然の植物を使い、時間をかけて作られる和紙は強さ
と美しさを持ち、人々の生活様式に合わせ変化を遂げながら今日に受
け継がれています。
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