芸能界だけでも本当に訃報が多いですね。谷村新司さんでしょ。坂田利夫さん、中村メイコさんですね。他にまだ何人もいらっしゃいましたけど、去年は大勢またいらっしゃいましたもんね。坂本龍一さんとかもそうですね。夕べになって突然ね。はい。携帯電話に八代亜紀さんがお亡くなりになった、その訃報が入ってきたんです。びっくりした。それは飛び上がるほど驚きました。
先日ね、お見舞いを送ったばっかりなんです。
そうだったんですか。プロダクションの社長からお礼状がきましてね。日増しによくなっておりますと。
ファンの皆さんの大きなご声援によりまして、もうすぐ回復します。うまくいったら、今年中にも復活しそうです。これが去年の年末、そういうお礼状が来たんです。もうすぐ会えるなと思っていたんです。
涙恋という歌で、彼女はスターになりました。それから私は数え切れないくらい何度も仕事をご一緒した。
浜村さんね、八代さんともうね思い出いっぱいですよね。
舞台と舞台の合間、あるいはリハーサルの間、ちょいちょい雑談かわします。
するとね、八代さん、あなたは熊本県八代市の出身で、本名は橋本明子で八代亜紀という芸名ついたんですかと言ったらそれは違います。あの悲しい歌を本当に悲しく歌う人なんですが、実は明るい人なんですよ。違う、私の本名は橋本明代です。明子じゃなくて明代なんですね。その明るいと八代市出身をとって八代亜紀という芸名をつけたんですよ。
だいたいうちのお父さんがね大変浪花節の好きな人で、
子守唄の代わりに浪花節を唸ってくれた人なんですよ。佐渡へ、佐渡へと草木もなびく とかね。旅ゆけば、駿河の国に茶の香り とか大変浪花節が好きでね子守唄の代わりに浪曲を歌ってくれた。だから私は小っちゃい頃から歌が好きで好きでついに歌が歌えるということ、それありがたいと思って中学卒業と同時に。バスガイドとして観光バスの会社に入ったんですって。そしたらね、なかなか思うように歌えない。そりゃそうですよね。今、そのバスが走っている場所と関係ない歌を歌えません。当然そうですよね。地域を走行するバスガイドさんはそうなんです。バス会社を辞めました。
それから年齢を誤魔化してね。15歳やのにナイトクラブに勤めたんです。
クラブで歌を歌うそういう仕事兼ホステスさんですね。これ、未成年の子はやれません、だめですよ。それでごまかしてね。18歳ですってナイトクラブ熊本にね絹という名前のクラブがあります。そこで働き出したというんです。そしてある日ステージで歌ってると客席ね、石原裕次郎さんが来てるんです。八代さん驚いてね。すぐハンカチ持って裕次郎さんのお席へ飛んでいってね。サインしてください。ここへサインしてくださいと言ってね。差し出したら裕次郎さんが快くサインをしてくれた。いい思い出になりました。
やがて家の反対を押し切って東京へ出て、そしてナイトクラブなんかに今度は歌える歌手として勤め始めたけど、自分の歌ってないんですよね。人の歌ばっかり歌う。そうするしか仕方がないですね。そうするとね。どんな人のどんな歌でもリクエストが来るため、はい分かりました。歌うんですよ。これで歌唱力をつけたと言います。その同じクラブに勤めておりましたのが五木ひろしさんです。同じぐらいに勤めてたんで、その頃、五木さんはね、三谷謙という芸名でしたね。八代さんとお互いに励ましあって、いずれは一流の歌手になろうねっていうて励ましあったそうです。
それから、あのレコード会社がスカウトしてくれたんです。
あの銀座のなんとかいうクラブに歌の上手い子がおるよって評判が立ってね。八代さんはレコード会社に誘われて歌手になったんです。でも始めはね、レコードを出すような歌手にね。あんまりなりたがらなかったようでそうなんです。そうするとね。ナイトクラブのホステスさんたちがね、お姉さんさん、あんた歌うまいね。お姉さんってホステスのほうが年上ですけど若いのに歌上手いね悲しい歌うたうね。こういう場所で働いてる女たちはね、みんな悲しい過去を持ってるの。惚れた男に貢いで貢いで散々利用されて遊ばれてポイ捨てされる。そんな女性が多いのよ。そういった女性ホステスさんたちがあんたの歌聞いてね。本当にもうしみじみ飲めばしみじみと想い出ばかり蘇る。あんたの悲しい歌ってみんな泣くのよ。
あんたもねレコードを出しなさいそう言われてレコード会社に所属してレコードも吹き込むって、昔は言いました. レコーディングするようになったんです。ところがね、五年間全くヒットが出なかった。そうなんだ厳しかったんだ。鳴かず飛ばず地方回りばっかりです。これを芸能界では、ドサ回りと言いましてね。非常に嫌がったもんです。まあ、あるいは軽くみられたもんですよ。ドサ周りやってる最中にね。そのときのマネージャーに騙されてお金を持ち逃げされたりね。そういうこともあったらしいんです。そんなことをね、明るく笑いながら語ってくれましたね。
そしてね。天津羽衣さんという女性浪曲師が歌謡曲も歌うんです。この人が歌ったね。稗つきくずしという歌、私大好きなんよって八代亜紀さんが言いました。わたくしもね、驚いて僕も大好きです。作詞家のもず唱平先生、花街の母なんかを作った先生も演歌の中では稗つきくずしがあれが。最高にいい。わし好きやねん。3人の意見がね。みんな同じ曲すきやって言い出したんですね。僕は八代さんに天津羽衣さんが何十年前に歌った歌ですが、八代さんもあれレコーディングし直してね。リバイバルソングとしてね。歌ってみたらどうですかと言ったんですが、レコード会社が違うとね。権利の問題があるでしょ?その当時、八代さんが所属しているレコード会社はその稗つきくずしの権利を持ってなかったんです。だからつい八代さんが。稗つきくずしを歌う、レコーディングするということはなかったんですね。
それからもね色んなお仕事一緒にしましたね。全日本有線放送大賞で「雨の慕情」あれで、レコード大賞か何か受けたでしょ?その時は八代さんが言ってくれました。
この歌ね、面白いエピソードがあるんです。
どんなエピソードがありますか?レコード会社がね。阿久悠さんは有名な作詞家ですね。ピンクレディーとかたくさんたくさん、津軽海峡冬景色とかたくさんのヒットソングがあります。淡路島出身の阿久悠さんにレコード会社が言ったそうです。八代亜紀もちょこちょこ小ヒットの曲を出しております。でもね、今まであったような、そんな歌ばっかりです。阿久さん、あなたからご覧になって、八代亜紀はこんな女性である。こんな歌を歌わせたい、そういう詩を書いてください。レコード会社が言うから、阿久悠さんが十何曲書いたそうです。それをレコード会社へ出したら、「先生、どれを見ても今まであったような歌ばっかりじゃないですか。」「もっと八代亜紀でないと歌えない歌を作詞してください」と言ったら阿久悠さんがえらい怒りましたね。十何曲書いたのに、何という言い方じゃ、今机の引き出しを開けたらな美空ひばりのために書いた歌がある。これ八代亜紀に歌わせたらどうやってね、突きつけたと思うな。これが雨の慕情、あるいは舟唄、どっちもいい歌ですよ。
そしたら八代さんがね雨の慕情、この歌詞を持ってね。故郷、熊本県八代さんの実家へ戻ってね お父さん、お母さんに見せて、こういう曲がついてるの「雨雨ふれふれもっとふれ」こういうメロディついてるやと歌うとそばで、年齢一歳の甥っ子が遊んでるんです。その子はすぐ真似してね。雨雨ふれふれもっとふれと歌うんです。これはヒットする。一歳の赤ちゃんがねまねして歌うぐらいやから、これはヒットすると自信を持ったそうですね。案の定、ヒットしました。そうですね。
舟唄は八代さんにとっては珍しく男歌なんですよね。
あかりはぼんやりともりゃいいとかね。「肴(さかな)はあぶったイカでがいい」とかね。男歌なんですね。これもヒットしました。「沖のかもめに深酒させて。いとしあの子と朝寝がしてみたい ダンチョネ」と節の一つが入りましてね、そうですね。これまた大ヒット雨雨ふれふれはね。公園で遊んでる幼い子供たちまでが雨雨ふれふれでね手のひらを上に向けてね。はいはいを真似して遊ぶんです。これ、私らもやってましたもん。学校でみんなでこう言いそうですね。はい、やっぱり。ノリますもんね。そこだけまねできるからやってましたね。し易いしねノリますよね。あれは本当にその手のひら上に向けて、これはヒットする予感があったそうですね。雨の慕情、舟唄共に大ヒットして、やがて演歌の女王と呼ばれるようになった。
今から五年前、「ありがとう浜村淳です」の放送開始45周年を記念して、
お隣の梅田芸術劇場を借り切ってお祭りをやったんです。その時にね、八代さん出てくれますかって?聞いたら喜んで出ますと言ってくれました。浜村さん、お祝いですと自分が描いた猫ちゃんの絵を持ってきてくれた。いまだに部屋に飾ってあります。この人ね絵の腕前はプロ級やそうですね。いいですね。そしてね。フランスでも有名な美術展として一番古いね。「ル・サロン」美術展にね。はい、五年連続で最優秀賞をとってます。いまではね。審査なしで亜紀さんの絵が飾られるという永久会員になってます。そういう資格をもらったんですね。
それでもね。もっともっといろんなことをやりたいということで、アメリカのニューヨークのね、クラブ。あれ、何て言うんですか?色々ありますよね。有名な名門ジャズクラブ・バードランドですね。会場すごいってね。英語でたくさんジャズ・ポピュラーソングを歌いましたね。そしてそれをニューヨークで録音したばっかりのCDに録音して持って帰ってね。新大阪駅のそばにメルパルクホールがあります。はい。そこでね。わたくしも一緒に共演した、その時そのCDくれましたね。
それでね。まあ、ありがとう浜村淳です。45周年記念のお祭りですよね。梅田芸術劇場で盛大に行われました。そのときね、八代さんが出てくれたんです。で、そのとき八代さんが何を持ってたらいいですかって僕に聞いてきたんだね。僕は、そうですね、いろんながあります。あれも聴きたい。これも聞きたいけど、もう一度逢いたいと言うヒットソングも聞いてみたいです。泣けばばかもメモも真似をして、あなた呼んでる別れ町。こういうふうに繰り返しますからね。「もう一度逢いたい」歌ってくださいねと言いましたね、わかりました。ちゃんと歌うように入れておきます。歌ってくれましたですね。素敵でまあ非常に歌は悲しいけど、本人の性格は明るいお茶目な人です。お茶目?ちょっと天然ボケってそうなんですね。なんかおっとりしてる感じのお話された姿。おっとりしてましたね。
それでね。梅田芸術劇場でこの番組45周年の祭りで会った時ね。一番前のお客さんがオペラグラスを使ってる、それをパッと見つけて亜紀さんが言いましたね。お母さん、そんな一番前の席からオペラグラスで私を見るということは、私の顔のあらさがしてるんでしょ?そういうそういうツッコミだったね。爆笑を読んだんですね。同じその時ね。次から次へ舞台花束持ってきてくれはったお客さんが大勢いらっしゃる時ね。いくつ目からの花束を受け取って八代さんは言いました。花束も嬉しいけどねえ、やっぱり現金の方が良いわね。そんなことさらっと言うんですね。ええ、こんな場所で、いやそうですよね。現金のほうがええなんてね。はい、笑いを呼んでね。歌になると悲しい歌を歌うんですよ。泣けばかもメモ真似をしてあなた呼んでる別れ町なんてね。悲しく歌っていたんですけど、本当は明るく楽しい人でした。